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ペットを看取るということ 天国の犬からの宿題

最終話:ありがとう。また逢えるよね

日経ビジネスオンライン
2009年7月15日掲載

【執筆こぼれ話】

このタイトルに関して「…まだ見ぬ次の“仔”への挨拶…」と連載で述べている。昨年(2008年)の今頃、24時間点滴に繋がれたピピを自宅看病しながら、目前の喪失を和らげるかのように「次も必ずヨーキーの女の子で、戻ってきてね」と、そう約束を交わしていた。

凜
日毎にピピに似てきている凜

そして今「まだ見ぬ次の“仔”」は「凜」という名前を得て、日毎にピピに似てきている。ここに至るまで、どれほど色々な方の優しさにお世話になったことだろうか。

最終回でご紹介した新潟の横田晴正僧侶は、今年(2009年)8月自宅にお越しいただき二度目の読経をお願いした。その際、たくさんのアルバムを本当に丁寧に笑い声とともに見て頂いた。その姿は私の胸を明るくし、再びピピを手放しで褒める機会を得てなんともいえない懐かしさと誇らしさが蘇ってきた。彼は自宅にある骨壷を開けて見た後「これまでのお話をうかがいますと、そろそろ次の子が来る準備の頃なのかもしれません。願わくば、その子にピピちゃんが入っていますように」とおっしゃり読経を上げられた。そして「今、骨壷から魂を抜きました。ですから、この骨壷はもう記念品にすぎませんよ」

凜
横田晴正僧侶

そんなやりとりは、私の中にあった「まだ、迎えるのは早すぎないか」「また、別れを体験することに耐えられるか」などという不安や逡巡を拭いさってくれた。

あの看病と別れを思い出す時、胸の痛みは消えない。しかし、それを上回る12年弱の間の喜びはしっかりと記憶にあり、その後の学びと癒しの中でピピとの出会いの感謝が日々につのっている。別れがあってこその新たな出会いをしみじみと噛み締める年の瀬である。

ご好評を頂いた「天国の犬からの宿題」もいよいよ最終回。

どんな題にしようかと考えていると、パッと浮かんだ言葉が「ありがとう。また逢えるよね」。これは、後述する横田晴正さんの著書(四季社)のタイトル『ありがとう。また逢えるよね。―ペットロス心の相談室』と同じである。

しばし躊躇したものの、やはりこの言葉が本コラムを締めくくるにあたり一番ふさわしいと考えた。そこには、ヨークシャーテリアのピピと一緒に過ごした11年5か月16日間への感謝、まだ見ぬ次の“仔”への挨拶、そして何よりも、多忙な中、オフィスや家庭でこの連載を読んでくださった読者への感謝の想いを込めた。

顧みれば、このコラムは極めて個人的な体験から始まったものである。執筆の依頼を受けたのは、昨年末にピピを亡くして、まだ気も張っている1月下旬。

その時点では、獣医療への疑問や提案、看病で得たノウハウを読者の皆さんと共有できればと願っていた。また、ピピとの体験は人間の医療問題と共通部分もあると感じており、そんなことも浮き彫りにできれば…と気負っていた。まだまだグリーフィング・プロセスにおける初期の段階だった。

それから連載が始まるまでの数カ月間、悲しみは心の柔らかいところまで容赦なく忍び込んでは、去っていくということを繰り返した。

本コラムではその一部のみに触れている(第6話)が、生き方を試されるような宿題を与えられている、と歯を食いしばることもあった。

そんな宿題に真正面から取り組んだり、ある時はうまく逃避する術を考えたりもした。私にとって、その作業はピピを偲び涙を流すという単純なことではなく、内面をみつめ、人生の夢を問われ、苦しさを楽しさに変えなければ及第点はもらえないという、難しい宿題だった。ペットロス症状の自覚よりも、人生の節目の修業中にあったという方が、ぴったりくる期間であった。

そして連載は5月に開始した。執筆することにより心の整理ができたかというと、実は悲しみが一層現実味を帯び、当初は涙をぬぐわずに執筆を続けることはできなかった。

そこにきて初めて私の心は解放され、単純な悲しみに包まれたのだった。そして回を重ねるごとに、少しずつではあるが私の心は悲しみの渦中から歩みでて、俯瞰して全体を見渡せるようになっていった。それは「時薬」なのか、多くの人と一緒に考えたい現状のテーマが整理でき始めたからなのだろうか。

ピピ
ピピ

しかし何よりも大きかったのは、読者の反響である。「私だけではないのだ」と心動かされるようなエンパシーに満ちたコメント、さらに助言の数々には励まされた。この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

現代のコンパニオン・アニマルを囲む環境は日進月歩であると思いたい。獣医療の選択の幅も、第7話で書いたように先端医療から代替医療まで広がってきている。例えばピピの場合にも、薬の適量や飲み合わせを計るためにオーリングテストも活用した。

このような中、いわゆるペットビジネス市場は1兆円を超えるという。ドッグカフェ、ホテル、幼稚園はもちろん、鍼灸、マッサージ、犬のエクステ(付け毛)、泥パック、さらに「婦人公論」7月22号によると、犬のペディキュア、リハビリ、ストレス解消に水中フィットネス、酸素カプセルを楽しむ猫もいるという。

フード類の百花繚乱は、第8話で触れた通りである。様々なグッズの選択肢があることは、オーナーにとっても楽しみではある。だが、何といっても年を重ね体力の落ちたコンパニオン・アニマルの介護用品の充実をはじめ、訪問看護師、往診獣医、アニマル救急車の数が飛躍的に増え、誰もが手軽に利用できる価格になることを切に願う。

高齢化社会にむけて、単身オーナーとコンパニオン・アニマルとの「老老介護問題」はここにも存在するであろうから。ピピの体験から自宅で看取ること(第1話)が、残された者にとって、大きな効用をもたらすことを実感したことも、そのように考える理由の1つである。

健康保険制度も共済組合から損害保険会社へと組織が整ったことにより、これまでのサービス内容とは違った制約を受けることとなった。ピピが加入していた例でいえば、治療費の半額負担から、半額ではなく治療費負担額の上限や保険利用日数の制限が定められたことは残念である。

コンパニオン・アニマルの霊園ビジネスも急成長している。環境にやさしいことをうたった24時間移動火葬場、戒名、初七日、四十九日などの法要はもちろん、骨をダイアモンドの粉と混ぜてペンダントや指輪に加工するサービスもある。人と一緒に入れる霊園はよく売れるそうである。その一方、心なき繁殖業者による「ペット販売」や保健所での殺処分の現状もまだまだ問題をはらんでいる。

読者からのコメントの中には、「犬や猫はあくまで動物であって『家族』というには違和感がある」「『亡くなった』という表現もおかしい」「彼らは今を生き、なついているだけで、勝手な感情移入は無用」などのご意見もあった。

そのようなコメントも理解できる。しかし、「ペット」と呼ぶにはおさまりのつかないアタッチメント(愛着)を築いたオーナーにとり、やはり彼らは「家族」であり、それを喪った時の感情は未体験の苦しさをはらむのも事実である。

そんなオーナーが他者の言葉で傷つくこともある。私自身そのような思いも経験し、逆に善意のつもりで放った言葉で我知らず、他者を傷つけたこともあるはずなのだ。喪った対象が何であれ、相手にどのように寄り添うかという事が問われると、自らを反省する機会でもあった。

コンパニオン・アニマルを失った悲しみを癒やすものは

喪失感を癒すには共通体験者(コンパニオン・アニマルを失った経験のある人)との意見交換も良いが(第6話)、「よい聞き手」である他人も気兼ねなく感情を吐露できる。私の場合、先述の曹洞宗長福寺僧侶、横田晴正さんがそんな人であった。

彼は自身が12歳の時、猫に命を救われ、動物の供養がしたくてサラリーマン体験後に出家したという新潟在住のユニークなペットロス・カウンセラーであり僧侶である。

縁あってピピの旅立ちから23週目の土曜日、横田僧侶に会うこととなった。蘆花公園近くの瀟洒な建物に入ると、シンプルな墨衣をまとった小柄な横田僧侶が気さくに迎えてくれた。私はその親しみやすい雰囲気にほっとした。

開口一番「お写真をお持ちですか?」と問われ、持参したアルバムを見せた。すると子供のように目を輝かせ、にこにこ写真を見て「わぁ、かわいい。この舌を出しているところがなんとも…」「このちっちゃい尻尾。ここに書いていらっしゃるように、この尻尾で何度癒されたことでしょうね」と楽しそうだ(詳細はこちらを参照)。

そんなおしゃべりは、これまで我知らず封じ込めていた感情を、やさしく撫でるかのようで心地よかった。涙よりも、一緒に暮らしていた時にいつも感じていた、ピピを誇らしく思う心の高まりが久々に蘇ってきた。

「私はご供養をする前にまず、コンパニオン・アニマルとのことを十分に聞かせていただきます。最期と最初の出会いのエピソードは特に大切です。ただ、ご供養するだけならば誰がしても同じですから」と彼は言う。

「動物用のお経ですか?人と動物もどちらも、喉仏の形は一緒なんです。そこに同じ仏さまがいるのです。お釈迦さまも生きとし生きる者はすべて同じとおっしゃっています。ですからそこに区別する必要はないんですよ」

こう言って横田僧侶が私の家族へのものも含め4種類の経を上げてくれた。その間、私は初めてゆっくりとこの半年を振り返る作業ができた。それは自分をみつめ、周囲に感謝し、家族を思う無邪気で素直な時間となった。

私の心の中でピピの存在は、日々薄れることはない。その一方で思いがけない供養体験以来、悲しみはやわらかくなり単純化されていっている気がする。祈るとはそういうことなのであろうか。

最終回にあたり、本コラムではまだまだ十分に語りつくせなかった点、力不足により説明の至らなかった点など反省もある。しかし、もし読者の方々がコンパニオン・アニマルとともに暮らす醍醐味と覚悟を、再度心に問う小さなきっかけとなったとしたら、筆者として、それは望外の喜びである。

「ピピ、本当にありがとう。また逢えるよね」

by @kazumiryu

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